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齋藤陽介インタビュー 第3回2023.11.03

齊藤陽介(さいとう ようすけ)
スクウェア・エニックスのゲームプロデューサー。スクウェア・エニックス取締役執行役員。愛称はよーすぴ。代表作品としては『ドラゴンクエストXオンライン』「ニーア」シリーズなど。また3Dアイドルユニット「GEMS COMPANY」プロデュース活動にも携わる。

■マルチメディア時代の新たなジャンル創出を試みたエニックスでの初期プロデュース作品

 

──齊藤さんのエニックス入社後のお仕事の来歴についてもお訊ねします。グッズ関係の部署からゲーム制作部門に転属された頃の初期のキャリアでは、ニューラルネットワークを活用したAIゲーム『がんばれ森川君2号[i]』(1997年)の森川幸人さんと一緒に遺伝的アルゴリズムを活用した『アストロノーカ[ii]』(1998年)をやられていたのが面白いなと思っています。当時はプレイステーションが実験的なゲームをリリースすることに寛容だった時代で、あれはゲーム史的にも非常に先駆的な作品でしたよね。

 

齊藤 当時はまだネットもないしホームページもなかった。そこでタウンページで電話番号を調べて、公衆電話から森川さんが所属していたムームーという制作会社に電話して「エニックスの齊藤と申しますが、お伺いしていいですか?」ってアポを取ったりして……懐かしいですね。

SCEから発売された『がんばれ森川君2号』とは違って、森川さんには、やはりゲームとしてのカタルシスが欲しい!と相談しました。勝ちか負けを誰かと競うのではなくても、「ゲームをクリアする勝ち」ってのはあるべきだよねと森川さんと話し始めたのです。

すると森川さんは「夢の島の蠅」の話を最初に話されました。

蝿を退治しようと殺虫剤を撒いてもそれに対応して生き残る個体もいる。その個体が繁栄したらまた次の殺虫剤を撒いて、それでも全滅しなくてまた次の個体が……っていう話で、これは「これゲームとして面白い!」っていうところからスタートしています。

『アストロノーカ』を森川さんに任せたら、普通じゃないものが普通に上がってきます。私は普通じゃないものを作りたかったんです。

 

中川 なるほど。もともとゲームというよりも玩具メーカー志望だったということもあってか、ゲーム開発の「普通」から離れて、面白い技術やギミックを扱える人たちを集めて、どうしたらみんなで面白く遊べるようにできるかを模索する姿勢が、当時の齊藤さんのお仕事には通底している気がします。

そういう意味では、CGではなく全編実写でアイドル女優を起用して「シネマアクティブ[iii]」というシリーズを打ち出した『ユーラシアエクスプレス殺人事件[iv]』(1998年)も特徴的だったと思うのですが。

 

齊藤 あれはエニックスの創設者で今はスクエニの名誉会長である福嶋康博さんが社長だったときに「齊藤くん、CGにお金かかりすぎだよ。もう実写でゲーム作れるらしいから、ちょっとやってみてよ」と言われて制作を始めたものです。

最初は「えーっ」と思ったのですが、当時は3DOなどでも海外の実写ゲームが出始めていました。けれども基本テレビドラマ風の普通の映像を流したり止めたりするだけというレベルのもので、テレビでもいくらでも似たようなものが観られるなら意味がない。

では、何であればゲームならではの映像体験になるかと考えたときに、ドラマや映画では「可愛い女の子とカメラ目線で話すことなんてないよな」と思いつきました。演出としてはたまにあるけど、ずっと正面からのカメラ目線で演技することなんてテレビドラマではほとんどないですよね。

そこで「『ときメモ[v]』+推理アドベンチャーゲーム」で、アニメ絵の美少女を実写のアイドル女優に置き換えてみようという流れですね。

 

中川 3DOやプレステの環境で光学メディアが普及して、マルチメディアがキーワードになっていた時代ならではの発想ですよね。そこに当時の新鮮なゲームジャンルだった恋愛シミュレーションゲームの視覚文法を持ち込むことで「アイドルと目を合わせて話せる」というエンタメへの活かし方が面白かったと思います。『ユーラシアエクスプレス殺人事件』と言えば、深田恭子を発掘した作品としてもよく取り沙汰されますからね(笑)。

 

齊藤 もうそれしかない、それ以外のことに俺お金払ってまでやらないもん、と思って(笑)。深キョン[vi]はね、ブレイクして良かったですよ。起用当初は雑誌のグラビアがあるかないかくらいで、まだ仕事なんてほぼしてなかった状態だったはずです。

ただデビューしたての女の子の中で飛びぬけて可愛い子がいたので「じゃあこの子にしよう」って決めた。同じように加藤あい[vii]さんもめちゃめちゃ売れてくれたし。ゲーム作っている間にいろんなものが上手く行ったんですよ(笑)。

完成したころには二人ともめっちゃ売れていて、東京ゲームショウでイベントやった時もすごかったです。隣の隣のブースぐらいまで人がいて私がサイン色紙をプレゼントするジャンケン大会している間に後ろから二人を退場させました(笑)。

技術に注目しなければ「遊び」なんて10年ぐらいの周期でグルグルしているだけで、クリティカルに新しい遊びなんて生まれないって思っています。アレンジの中で皆が遊んでいるだけの状況だと思います。

ただ技術の進化だけは、本当に新しい何かが生まれるので、そこから新しいエンタメを考える方が、グルグルしているよりも楽しいですよ。だから私はやるのであれば、そっちの方がいいと思うのですけど。もちろん売れる売れないははっきり出ちゃうと思いますけどね。

 

■オンラインPCゲーム黎明期の『クロスゲート』『みんなdeクエスト』の挑戦

 

──プレステ環境でのAIゲームやマルチメディア系のスタンドアローンゲーム開発を経て、21世紀に入るといよいよMMORPG[viii]を中心とする国産オンラインゲームの勃興期に入ってきます。齊藤さんはそのパイオニアとしてのご活躍も顕著で、最初期のPC向け国産MMORPGである『クロスゲート[ix]』(2001年)や、ウェブブラウザとメールでプレイできる「メールプレイングゲーム」を謳った『みんなdeクエスト[x]』(2001年)を手がけられています。当時はダイヤルアップ接続でのインターネット利用がようやく普及しはじめた頃で、みんながガラケーを持つようになったくらいの時期だったかと思いますが、当時どんなことをやろうと考えたのかをお伺いしたいのですが。

 

齊藤 まず『クロスゲート』の企画は、スクウェアがプレイステーション2向けに『ファイナルファンタジーXI[xi]』(2002年)を出す前の段階で、当初は「ドラゴンクエストオンライン」にすることも視野に入れながら「もういちどエニックスでパソコンゲームをやろう」という話から始まっていました。

でも1980年代のマイコンブーム当時にあった営業ルートが途絶えていて、PCショップの棚も無くなっていたので、会社を説得して実現するまでに4年間くらいかかりました。今だったら別に店舗への流通なんかなくてもダウンロード販売だけでいいのではという話なんですが、当時はまだそういうインフラも整ってなくて。

実際、私は『ディアブロ[xii]』(1996年)がめちゃめちゃ好きだったんですが、パッケージ版が近所の販売店のPCソフトの売り場には置いてなくて、和歌山のお店の通販でしか買えないような時代でした。

そんな中でエニックスの営業が頑張ってくれて、『クロスゲート』はなんとかPCショップや家電量販店に置いてもらえたのですが、当時すでにユーザー目線だとPCショップにPCゲーム買いに行く敷居の高さが尋常じゃないことになっているなと、自分でも作りながら思っていたんですね。

そんなふうにPCショップでパッケージソフトを買うことのハードルの高さを鑑みると、どんなPCであったとしても、ブラウザとメーラーだけは必ず入っているので、メールを使うゲームであれば、それこそガラケーでも全然できるだろうと考えました。

それで人とつながるゲームが面白いと言うことをわかってもらうために、「ブラウザとメーラーだけで遊べるRPGを作りたい」と考えて『みんなdeクエスト』を作ろうということになりました。

その時にちょうどSCEで「ゲームやろうぜ!」というクリエイターのオーディションがあって、そこにカードゲームがベースのブラウザゲームを作っているリンドブルム[xiii]というチームがあったのです。

そこで私はそこに直接メールを送って「ブラウザとメーラーだけで遊べるゲームを作りたいけど、一緒にやらないか?」と提案したのです。先方のリンドブルムは急に「エニックスの人からメールが来たぞ」って騒ぎになったそうです(笑)。

まずは「お話を聞かせてください」ってなってスタートしました。とにかく通信を使ったPCゲームの敷居を避けたいっていう思いでやりましたね、人と遊ぶゲームは面白いよと広めたかった。

 

中川 『みんなdeクエスト』はシステム的にはプレイヤーが選択したアクションが1日2回集計されて、その結果がテキストベースでアウトプットされるというスタイルなので、まさに自動処理型のPBMを当時のインターネット環境で再現したゲームになってますよね。

 

齊藤 はい。『みんなdeクエスト』は4~5人で作ったのですが、実際「頻度の高いPBM」と思って作りました。元のタイトル案は『メールdeクエスト』でしたが、商標的に怒られそうだったので途中から『みんなdeクエスト』に変えたくらいです。

本来プロデューサーである私が、「自分の意志でこういうものを作りたい」といって作った数少ない作品で、めちゃめちゃPBMの影響を受けたゲームでした。

 

[i]1997年5月23日にソニー・コンピュータエンタテインメントから発売されたプレイステーション用ゲーム。
[ii]1998年8月27日にエニックス(現・スクウェア・エニックス)より発売されたPlayStation用育成シミュレーションゲーム。
[iii]エニックスより2000年4月27日に発売された同社初のPlayStation 2用ゲームソフト。
[iv]エニックス(現:スクウェア・エニックス)より1998年11月26日に発売された、全編実写映像を特徴とするプレイステーション用ソフトウェア。
[v]『ときめきメモリアル』は、1994年5月27日に、コナミ(現・コナミホールディングス)からPCエンジンSUPER CD-ROM2向けに発売された、恋愛シミュレーションゲーム。
[vi]深田恭子の愛称。日本の女優。1996年から芸能活活動を行う。
[vii]日本の女優。1997年から芸能活動を行う。
[viii]大規模多人数同時参加型オンラインRPGのこと。
[ix]スクウェア・エニックスが運営をしていた、日本国産の多人数プレイ型ロールプレイングゲーム(MMORPG)。
[x]Lindwurmとエニックスが開発、スクウェア・エニックスが運営している、日本国産の定期更新型オンラインゲーム。
[xi]スクウェア・エニックスが開発したファイナルファンタジーシリーズのナンバリングタイトル第11作目にして、初のオンラインゲームMMORPG。
[xii]ブリザード・エンターテイメントが開発するディアブロシリーズの1作品目である。
[xiii]株式会社リンドブルムは、日本のコンピューターゲーム開発会社。

中川大地氏

齋藤陽介氏

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