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齋藤陽介インタビュー 第1回2023.10.20

齊藤陽介(さいとう ようすけ)
スクウェア・エニックスのゲームプロデューサー。スクウェア・エニックス取締役執行役員。愛称はよーすぴ。代表作品としては『ドラゴンクエストXオンライン』「ニーア」シリーズなど。また3Dアイドルユニット「GEMS COMPANY」プロデュース活動にも携わる。

■『ネットゲーム’88』がもたらした多人数で遊ぶ参加型エンターテインメントの洗礼

 

──『ネットゲーム’88(N88)[i]』(1988〜89年)や『ネットゲーム’90 蓬萊学園の冒険!(蓬萊!)[ii]』(1990~91年)といったPBMの体験は、プロデューサーとしての齊藤陽介さんの「多人数参加型ゲーム」の制作経験に与えた影響が大きかったのではないかと思っています。そこで本日は齊藤さんのゲーム制作の来歴と、PBM体験とのつながりについて迫っていければと思います。まず、思春期時代のゲーム原体験やPBMとの出会いについて伺えますでしょうか。これまでメディアで公開された齊藤さんのインタビュー等を拝見すると、ゲームというより最初は玩具屋を目指されていたとか。

 

齊藤 そうですね、最初はゲームよりも玩具の方が良かったという印象ですね。そこから遊演体の『N88』ですから、アンダーグラウンドの極みですよね

 

一同 (笑)

 

齊藤 私は、TRPG自体には興味があったのです。けれども今でこそそういうコミュニティはSNSとかで作りやすくはなっているなと思いますが、当時は単純に同じ教室にそれに興味があるやつがいなかったら遊ぶ機会なんてない、という時代でした。

そこで一人なので遊べなかったですが、TRPGを扱っている「ウォーロック[iii]」という雑誌を買っていました。それもまたアンダーグラウンドの極みの中の極みみたいな、「誰が買っているのだろう、これ?」みたいな雑誌でした。

でも私は表紙の奇麗なアートの表紙だったので、これは面白い本だなと思って読んでいました。TRPGに興味があったので、ハイ・ファンタジーの世界って興味があったのです。で、遊ばないけれど『D&D[iv]』を買って、ダイキャストのフィギュアを並べては喜んでいるような、暗い学生でしたけれども(笑)。

一方、明るい面ではそれこそずっと水泳やってスキューバダイビングをやるアウトドアな学生時代も送っていましたが。インドア趣味としてはTRPGが好きでした。

高校生時代は水球をやっていましたが、三年生になったらほぼ部活動がなくなるので、大学も推薦だったので、何か面白いことないかなと思ったときに、「ウォーロック」で『N88』の広告を見たのです。

「これは周りに友達がいなくてもTRPG的な遊びができる」と理解はできたので、やってみたのがPBMへの入り口ですね。

 

中川 ダイキャストフィギュア[v]のお話をされましたけど、そういう造形物を使うところからボードゲームなども遊ばれていたという感じでしょうか?

 

齊藤 これはいろいろなところで言っていますが、玩具やフィギュアというものは壊したり失くしたりしてしまうことが当然ありますよね。

 

超合金のロボットのロケットパンチを失くしてしまったとか。それは子供にとってはちょっとした心の傷ですけど、情操教育的に大事なことであると思っていました。

一方、デジタルのゲームはモノをなくしたりしないし、記憶にも大して残らないのではないか。そこで男子向け玩具ならばバンダイ、女子向け玩具だったらタカラというイメージで、玩具系の業界に入れればいいなとは早い時期から漠然と考えていましたね。

だから当時はフィギュア収集というより、『D&D』などで使うメタルフィギュアのようなものにもめちゃめちゃ惹かれていました。

 

中川 その方向からもハイ・ファンタジーの世界に惹かれていったと。つまり物語というよりは、純粋に「遊び」としての魅力から入っていかれた感じでしょうか?

 

齊藤 そうですね。人と遊ぶのが好きでした。TRPGは一人じゃ遊べないものです。PBMも、手紙やFAXのやり取りなど、人とのつながりがあってこそ遊べるものなので、私は潜在的にそういうものが好きなのでしょうね。あまり意識はしていなかったですけど。

 

中川 別の記事でインタビューしている奈須きのこさんが、物語を作る方向でPBMに惹かれてゲームシナリオ方面に進まれたのとは対照的ですね。齊藤さんの場合、「人と遊ぶ」という方向性が業界へと向かわれた原点なのかな、と感じます。

 

齊藤 PBMに参加すると、会ってその日に相手の家に遊びに行くことなどがありましたからね。私はめちゃめちゃ嬉しかったですよ。ボードゲームとかTRPGが好きな人たちのコミュニティに入れるのは、それまでにない幸せでしたので。いろいろなところに首を突っ込んで、『D&D』をやっている会場に遊びに行かせてもらったりとか、あとは他プレイヤーの家にボドゲ遊びに行ったりとか。当時は、『N88』で仲良くなった人とつるんでいる感じでした。

 

中川 『N88』をやられていたときのエピソードなどあればお聞かせ願いたいのですが。

 

齊藤 有名プレイヤーの方々に比べると、日本全国の人たちに会いに行くみたいなパワーはなかったです。けれども、後に小説家として活躍される野尻抱介[vi]さんや、当時の有名プレイヤーだった曲直瀬一洋[vii]さんに会いに行くために、わざわざ名古屋に行って鍋会に顔を出すくらいはしていました。

『N88』がなかったら絶対ありえなかった、とても面白い体験だったと思います。今は自分と同じ趣味の仲間を見つけたければ、ハッシュタグをつけてSNS等でつぶやいたり検索したりすることで容易にその存在を確認できます。けれど1980年代当時はそういうのがまったくなかったので、能動的に動かなければならなくて。

まあ、いま当時の雑誌の交流欄を読むとみんなゴリゴリに住所書いていて、それはそれですごい話だなと思いますけれど(笑)。

 

中川 『N88』では、齊藤さんは2キャラクターを使われていましたよね。それぞれどういう意図で作られたキャラだったのですか?

 

齊藤 最初、1キャラ目は「最海」という僧侶のキャラクターでスタートしました。途中から今で言うネカマキャラとして、2キャラ目のアイドルの「森永ラブ子」を作った感じですね。真面目にゲームをプレイしようと思ったのが僧侶キャラの最海でした。「虹色教団」というプレイヤーが作った集団に所属していましたね。で、不真面目にやろうと思ったのが森永ラブ子です。いわゆる「シリアス班」と「コメディ班」みたいな感じです。PBMには、いわゆるメインストーリー的なものがあるじゃないですか。そこを追っかけたいなと思ったのが最海でした。オカルトストーリーでしたから、僧侶の役職を選んで、森永ラブ子は芸能人っていう職業で、まぁ遊びで作りましょうって感じでしたね。

 

中川 遊びのキャラを投入して、本筋とは違うプレイングができたら面白いだろうと思ったのはやっぱり仲間ができたからですか?

 

齊藤 そうですね、PBMは様々なストーリーが並行して進んでいくゲーム展開なので、興味があることに対して、1キャラだと両方追いきれない。最海という真面目キャラは「虹色教団」を立ち上げた王舞吾人(おうまい・ごっと)さんと一緒に活動する方針でした。サブキャラの森永ラブ子は、単独で好き勝手やれるキャラにしようと(笑)。どうしても虹色教団にいるとこっちの活動に集中しようって意識が出ちゃうので、もう一人のキャラは好き勝手やろうかなっていう。でもその月によっては好き勝手やっている方が面白いリアクションが出たりしましたね(笑)。

 

中川 『N88』のメインキャラである最海が追っかけていたストーリーは、人間側対怪物側に分かれたプレイヤー同士がシナリオの謎を解きながら邪神の復活をめぐって争うオカルト系の対戦もので、やたらリテラシーの高い濃い人たちが緊密に連絡を取り合って情報戦を繰り広げながら共同作戦を立てて富士の樹海で会戦するなど、非常に高度なプレイスキルで競っていました。そういう作品のノリに関してはプレイされていてどのように感じていましたか?

 

齊藤 TRPG的な考え方なのかもしれませんが、グランドマスターの有坂純さん以下のゲームマスターチームがもともと望んでいる方向に進んでいたのかどうか、いつも気にしながらプレイしていました。本筋はシリアスなのに、その中に唐突にコメディがあったりするじゃないですか。それはそれで面白いと思いつつ、ゲームマスター側がどこまで「本筋としての答え」を用意していたかは分からないなと。その正解を解くというよりも、プレイヤーとしてゲームマスターにとって面白いと思ってもらえることをやりたいとは思っていましたね。とすると、定番行動で情報収集するのではなく毎月フリーアクション行動をとることになるのですが、フリーアクションを書くスペースにワープロで最小フォントを使って打ち出して、ギリギリのスペースに紙を貼って送るということをやっていましたね。

 

中川 「周りと差をつけるプレイをしよう」という意識は当時からあったのですね。

 

齊藤 差をつけるというつもりはなかったです。当時、フリーアクションをいっぱい書いて封筒で送っている人もいたらしいですが、それは受け取るゲームマスター側のことを考えていないなと思ったので、フォーマットの中でできることをしていました。よくあるじゃないですか、「400字詰め原稿用紙はなるべく空きがないように使いましょう」みたいな。もしかしたらプレゼンテーションとしての基本みたいなことを抑えながら書いていたのかもしれないですね、「ここを読んでもらいたい」ってところにあえて蛍光マーカー引いたりしていましたからね(笑)。

 

中川 それは充分スーパープレイヤーですよ(笑)。齊藤さんは、まだオンラインゲームというものが存在しない当時から、運営側の負担や気持ちを考えながらプレイされていたのは非常に大きいと思います。あと、『N88』のベースになった日本神話やクトゥルフ神話[viii]が、今で言うARG(Alternate Reality Game:代替現実ゲーム)[ix]に通じるかたちで現実の世界とも同期していく題材趣向やシステムついてはどう感じられていましたか?

 

齊藤 それまで興味があったのは現実とは別世界のハイ・ファンタジーのTRPGでしたが、現実とリンクしたPBMの『N88』や『蓬萊!』は、めちゃめちゃ新鮮な感じがしましたね。

今でこそARGという言葉もありますけど、PBM以前にはそういうスタイルの遊びは無かったと思います。リアルな新聞広告がゲームの世界から出てくる可能性もあったし、そういった部分で現実とファンタジーの混ざるゲーム体験をすごく新鮮な気持ちで遊べていた気がします。

それまで興味がなかったわけではないですけど、『N88』をきっかけにめちゃめちゃ『古事記』とか『日本書紀』とか読み込みましたし、クトゥルフ神話を知ったのも『N88』が最初で、クトゥルフ全集にも目を通しました。

もちろん当時から『クトゥルフの呼び声(現:クトゥルフ神話TRPG)』がTRPGとして発売されていたのは知っていましたし、ゲームのシステムの内容もSAN値があってどうこうというのは情報としては知っていました。けれど実際に遊んだことはなかったので、ゲームとしてPBM『N88』を遊んだときに感じた新鮮さはとても大きかったですね。

当時はクトゥルフ神話ってそんなにメジャーでしたか?

 

中川 よほど濃いSF・ファンタジーやミステリーのファンを除けば、全然メジャーではなかったはずです(笑)。

 

齊藤 『N88』でも、故人のはずのラヴクラフト[x]が唐突に登場してきて、「なんだよそれ」ってなりますよね。まだクトゥルフ神話が物珍しかった頃から、現代でホラーストーリーにクトゥルフ神話を組み込もうとしていた有坂純[xi]さんや門倉直人[xii]さんは、本当に素晴らしいなと思いますよ。

 

[i]『ネットゲーム’88』は、株式会社遊演体が1988年に実施したプレイバイメール(PBM)の企画。
[ii]有限会社遊演体が1990年1月から1991年1月にかけて行っていたプレイバイメールである。
[iii]ペンギン・ブックスとイギリスのゲーム制作会社ゲームズ・ワークショップにより、1983年から1986年にかけて発行された雑誌。
[iv]『トンネルズ&トロールズ』 (Tunnels & Trolls, T&T) は、アメリカのテーブルトークRPGのひとつ。文庫1冊に収まったルールブックと、6面ダイスのみを利用する簡素なシステムが特徴。
[v]金属素材の亜鉛を溶かし、金型に流し込む製法で作られる模型のこと
[vi]日本の小説家、SF作家。
[vii]日本の数多くのPBMに参加してきた有名プレイヤー
[viii]パルプ・マガジンの小説を元にした架空の神話。 20世紀にアメリカで創作された架空の神話のこと。
[ix]日常世界をゲームの一部として取り込んで現実と仮想を交差させる体験型の遊びの総称。ゲームのThe Beastなどから始まったとされている。
[x]ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(英: Howard Phillips Lovecraft、1890年8月20日 – 1937年3月15日)は、アメリカ合衆国の小説家。怪奇小説・幻想小説の先駆者の一人で生前は無名だった。死後に広く知られるようになり、一連の小説が「クトゥルフ神話」として体系化された。
[xi]遊演体所属のゲームデザイナー&シナリオライター。『ネットゲーム‘88』においてグランドマスターを務める。その他、1988年にホビージャパンより発売されたクトゥルフ神話TRPGのサプリメント『黄金の天使』などを執筆。専門は西欧近世軍事史。今はなき歴史群像などにて連載も持っていた。
[xii]遊演体所属のゲームデザイナー&シナリオライター。代表作として1984年6月、ツクダホビーから発売された『ローズ・トゥ・ロード』があり、本作は日本初のテーブルトークRPGをして知られている。また別名義として、思緒 雄二を用いて、そちらの代表作として、『送り雛は瑠璃色の』などがある。

齋藤陽介氏

PBM蓬莱学園資料

中川大地氏

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