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齋藤陽介インタビュー 第2回2023.10.27

齊藤陽介(さいとう ようすけ)
スクウェア・エニックスのゲームプロデューサー。スクウェア・エニックス取締役執行役員。愛称はよーすぴ。代表作品としては『ドラゴンクエストXオンライン』「ニーア」シリーズなど。また3Dアイドルユニット「GEMS COMPANY」プロデュース活動にも携わる。

■自由な環境型ムーブメントとしての『蓬萊学園の冒険!』

 

──『N88』が終わり『蓬莱!』が始まりますが、今度はどういうプレイをしようと思われたのですか?

 

齊藤 もう女キャラを演じることが、嬉しくなって、そのまま女キャラで行こうと思ったはずです。「森永マミ」ってキャラクターでやっていましたね。

 

中川 2018年の「電ファミニコゲーマー」での座談会記事でも語られていましたが、最初は静かにプレイされていたとのことですが、中盤からプレイヤー側から選出された生徒会長である犀川静の生徒会と非常に絡んで活動されましたよね。

 

齊藤 振り返ると、私の入り口としては、ゲーム内での政治活動に対しての協力ではなかったですよ。

「このプレイヤーの人と一緒にいたら面白いことが起きるぞ」という興味が最初でした。ネットゲームで開かれるプライベートイベントの中で、犀川静生徒会長のプレイヤーの方と知り合いになって、「生徒会活動していて、学園内戦に巻き込まれるなんて、すごく面白そうだから何かできることがあったらちょっと一緒にやりましょう」みたいな始まりではありましたね。

『N88』ですでに知り合いであったプレイヤーの方はいたのですが、『蓬萊!』に関しては、ゲームの中では一匹狼でいようと遊んでいましたね。情報はひたすら仕入れようとはしていましたけど『N88』の時とは違うプレイスタイルをしようと心がけていましたね。

 

中川 あと『N88』の中心プレイヤーの方々はもう燃え尽きてしまっているというのがありましたね。

 

齊藤 あー、確かに「虹色教団」のメンバーも燃え尽きていましたね(笑)。

 

中川 『蓬萊!』では、『N88』のときのプレイヤー同士のサイド対決を主軸にした対立型ゲームとは違い、「この学園の中では好きなことができるぞ」という環境型の多人数ゲームになりました。こうしたことから触発されたことはありますか?

 

齊藤 環境型のゲームになったことで、何が起きるのか本当にわからなくなったことが良かったと思います。色々なところで色々なことが起きていました。クラブ活動を一生懸命にやっている「だけ」の人たちもいたし、メインストーリーを追っかけて学園の謎の核心に迫ろうという人もいた。

海洋冒険部で独自の物語が始まっている人たちもいたし(笑)。その意味では『N88』の方が楽しみ方の幅は狭かったのでしょうね。対立型ゲームとしての明確な目的もあったし。

一方で『蓬萊!』は、その後のオープンワールドのMMOを先取りしているような意識に近かったのかもしれません。ゲームとして強くなることも一つの目的だけれども、別にあなたは強くならなくてもいいよ、というか職人としての世界一を極めましょうとか、商売で稼ぎましょうとか、色々な職業があってそういう遊び方の自由度という意味ではMMOっぽいですよね。

『N88』はゲーム的な意味での「勝ち負け」というところをモチベーションに頑張り、『蓬萊!』は、設定された世界の中で学園生活をするというイメージに近かったかもしれないですね。

 

中川 具体的に当時交友していたプレイヤーとの付き合い方で印象に残っていることとか、交流誌を作ったりとか、プライベートイベントを開催したりはされましたか?

 

齊藤 いやー、当時は「たかまぁ亭」という宿泊イベントを運営していた畦田はすげえな、と思っていました。呼び捨てなのは高校の同級生だからです(笑)。プレイヤー主催のイベントであったにも関わらず、それを全国規模のイベントにまで大きくした人は彼以外にいなかった。また私の近くにめちゃめちゃ面白い情報同人誌を発行するプレイヤーもいましたし、そういう意味では「受け身」でゲームには楽しんでいました。

 

中川 齊藤さんはどのあたりのユーザー主催のプライベートイベントに行かれていたのでしょうか?

 

齊藤 それこそ『N88』のときは、「大名古屋コンベンション[i]」にも出ていました。あれは元々、SF大会関連のイベントですよね。

 

中川 『N88』の初期の頃は、SFファンダムと親しかったようです。とくに華やかな活動をしていた方々は、SF系の人が多かったという印象ですね。

 

齊藤 『N88』『蓬萊!』当時は横浜に住んでいました。横浜でもオフ会はあったのですけど、渋谷に集まることが多かったですね。横浜の人って横浜で生活が完結できるので、あまり東京とか特に用事がなければ来なかった。

『N88』は渋谷へと頻繁に足を運ぶきっかけになったかもしれないですね。渋谷のファーストキッチン、それと渋谷シードの伝言板によく足を運びました。当時、渋谷シードには電子掲示板が設置されていました。『シティーハンター』の「XYZ」みたいに、PBMの参加者には解る内容や情報が書かれていました。そういう現実とのリンクもあって面白かったですね。ドキドキしました。

また当時あったダイヤルQ2で情報交換をしていました。電話代が数万円単位でかかりましたよ(笑)。両親からはダイヤルQ2だからエロいチャンネル聞いているのかって責められました。あとは家に「虹色教団」って書いてある封筒がいっぱいあって「息子がヤバい宗教にハマってんじゃないか」って思われたりもしました(笑)。

渋谷でプレイヤー仲間と会ったときに『モンスターメーカー[ii]』(1988年)や『タンクハンター[iii]』(1989年)といったカードゲームをやるようになりました。他に『モダン・ネイバル・バトルズ[iv]』とか、こんなに幸せな時間ないなってほど、怒られるまでジュース一杯でカードゲームやっていましたね。

 

■PCゲームの原体験とゲーム業界への関心の高まり

 

──エニックスがバリバリにアドベンチャーゲームとか出している時代に、8ビットとかのPCゲームはやられていましたか?

 

齊藤 めちゃめちゃやりました。もともと自分で最初に買ったというか親に買ってもらったのがNECのPC-6001mk2[v]でした。

けれど実は遊べるゲームが少ないことに気づき、中古でPC-8801mk2[vi]を買うっていう(笑)。当時はコンシューマーのゲームに触れている時間より長かったかもしれないですね。

元々がハイ・ファンタジー志向でしたから『ザ・ブラックオニキス[vii]』(1984年)とかありましたし。その後で「『ドラゴンクエスト[viii]』(1986年)という皆がベタ褒めしているゲームがある」ってことを知って、でも「いやいやいや、今更パーティを組まずに一人で世界を冒険したって面白いことなんかないでしょう」って。

「何をきみたち一人で冒険しているのか」と、もう僕らは酒場に行っていくらでも仲間誘えますと。『ブラックオニキス』ではダンジョン冒険している間に「Join us」って言えば仲間にできますよ。で、その後『ドラゴンクエストⅡ 悪霊の神々』(1987年)を始めてみたら「物語の中で仲間が増えていく! 仲間ってシステムで増やすものじゃないんだ!」と衝撃を受けました。「これ考えた人すげえな!」って思ったのは『ドラゴンクエストⅡ』でしたね。

シミュレーションでは『信長の野望[ix]』(1983年)はめちゃめちゃやりましたよ。友達がFM-7を持っていて、その家でやらせてもらいました。『テグザー[x]』(1985年)とか『ザ・ブラックオニキス』『夢幻の心臓[xi]』(1984年)とか。でも時間のかかるRPGだから、人の家で遊ぶものじゃないですね(笑)。『ハイドライド[xii]』(1984年)は家のマシンでもできましたけど、ちょっとドットが荒い(笑)。色々なジャンルのゲームをやりましたね、でもやっぱRPGの方が多かったのかな、そう考えると。RPG、シミュレーション、アドベンチャー、アドベンチャーは『サラダの国のトマト姫[xiii]』(1984年)とか非常に好きでしたし。

 

中川 ご自分でプログラムはやられましたか?

 

齊藤 私はポケコンレベルで辞めました。BASIC[xiv]止まりでしたね。だから「I/O」は読めなかったですね、「ベーマガ(マイコンBASICマガジン)[xv]」に載っている小さなゲームを自分でプログラムしてデバッグして満足しているぐらいで、マシン語とかは「どうなっているのこれ?」と深追いをしなかったです。

 

中川 自分の感覚だと、PBMプレイヤーには、自分でPCは持っていてBASICまでは覚えたけど、マシン語まで進めなかった人がわりと多かった気がします。自分で本格的なゲームを作ることはできないけど、システムとかを考えて遊ぶのが好きみたいな嗜好を持っている人が非常に多かった時代という気がしますね。

 

齊藤 現在であれば、マーダーミステリー[xvi]などは、当時ロールプレイが上手くできていた方たちであれば仕事になったのではないかなと思いますけどね。

 

中川 日本のPCゲームシーンはノベルゲームのように、テキストでストーリーテリングをやって行く形式のものと相性が良かったです。ですからPBMと接続性が高かったと思いますね。ちなみに齊藤さんは『蓬萊!』の後って、PBMには参加されていましたか?

 

齊藤 ホビー・データの『クレギオン シナリオ#1 遙かなるアーケイディア[xvii]』(1991年)と、『蓬萊!』の次の『那由多の果てに[xviii]』(1992年)もちょっとやりました。でも途中でどっちも辞めてしまったかな……。『蓬萊!』で遊び仲間はできたから「もういいや感」はあった感じかもしれません。あと、怒られちゃうかもしれないけど、自分的には面白くなかったかもしれないです。これは好みの問題なので、関係者の方はあまり気にしないでください!

 

中川 そうかもしれません。僕も『クレギオン シナリオ#3 ラストミレニアム』(1993年)までやっていますが、『N88』『蓬萊!』で熾烈な競争やクリエイティビティを発揮して思いもよらないシナリオ展開や世界設定が共同創作されていった熱量に比べると、だんだん甘口になって多くのプレイヤーが活躍できるようになった一方で、与えられた居場所での自分の周辺のロールプレイだけで満足してあまり大きなシナリオ全体には興味を持たないタイプのプレイヤーが多くなっていった印象で。

あとは『N88』『蓬萊!』みたいに現実の日本の中で現実と同期して進んでいくダイナミズムみたいなものとかは無くなってしまったのは残念でしたね。

 

齊藤 確かに、そう考えると俺は「なろう系」とかで「現代日本にダンジョンができる系」のものが好きですよ。

 

中川 わかります(笑)

 

齊藤 ここだ、これのせいだ! 潜在的に記憶に刷り込まれているんだ。

『N88』や『蓬萊!』のせいで俺はあの系統が好きなんだ(笑)。今気が付きました。

そういった意味では『蓬萊!』もPBMとしてスタートしていますけど、以後は小説や家庭用ゲームを含んだフランチャイズとしての「蓬萊学園」シリーズが細々ながら展開されていたので、作家として影響を受けた人も密かに多かったでしょうね。

 

──『N88』『蓬萊!』のプレイ体験を振り返ると、以後の齊藤さんの人生に少なからず影響するものが芽生えていたということでしょうか?

 

齊藤 めちゃめちゃ影響受けたと思いますよ! 体験していなければ、ゲーム業界には入ってないと思いますし。もともと地方銀行にでも入行しようかなと思っていたくらいなので、一応両親が銀行員なので、弟は公務員ですし、経済学部だし、みたいな。

 

中川 大学では中小企業論も勉強されていたということですが、それはどういうきっかけで?

 

齊藤 中小企業論はたまたま入ったゼミでした。実際やってみたらめちゃめちゃ面白くて。PL(Profit and Loss Statement:損益計算書)とかBS(Balance Sheet:賃借対照表)を読むのは面白いなと思っていました。

就職活動のときに一部上場していた株式会社セガさんとか株式会社バンダイナムコアミューズメントさんとか、ゲーム業界としては受けましたが、最後に内定もらったのが株式会社エニックス[xix]でした。

当時は店頭公開で上場していなかったのですが、その会社の内情を、表に出ている範囲ですが見させてもらった時、無借金経営だし、キャッシュを死ぬほど持っているなっていうことで「ああ、俺がめちゃくちゃしてもつぶれないな」って思って(笑)。

 

[i]名古屋で開催されたSFイベント。大阪で開催されたSFイベントDAICONのようなもの。
[ii]1988年に翔企画より発売されたカードゲーム。また、一連のカードゲームシリーズ、およびこれらとキャラクター・世界設定を同じくするボードゲーム・コンシューマゲーム・コミック・小説などの一連の作品群を指す。
[iii]1989年にアークライトゲームズより発売された「遊べる戦車コレクション」的なプレイアブルで手軽な戦車戦ダイス&カードゲームのこと。
[iv]ホビージャパンから発売された、海戦を楽しめるカードゲーム。
[v]NECより1983年7月1日に発売された、PC-6001の上位互換の後継機。メーカー希望小売価格は8万4800円。
[vi]日本電気(NEC、後に日本電気ホームエレクトロニクスへ移管)が販売していた、パーソナルコンピュータ。
[vii]『ザ・ブラックオニキス』 (The Black Onyx) は、1984年1月に日本のBPSから発売されたPC-8801用ロールプレイングゲーム。
[viii]1986年にエニックスから発売されたファミリーコンピュータ用RPG。シリーズ化して日本のRPGの代名詞となったが、システムに海外のパソコン用RPGパソコンのRPG『ウルティマ』や『ウィザードリィ』の影響を強く受けていることでも知られている。
[ix]1983年に株式会社光栄マイコンシステム(現「コーエーテクモゲームス」)が発売したPCゲームソフト・日本の戦国時代をテーマとした歴史シミュレーションゲームのシリーズである
[x]『テグザー』(THEXDER)は、1985年4月に日本のゲームアーツから発売されたPC-8801mkIISR用アクションシューティングゲーム。
[xi]1984年にクリスタルソフトより発売された8ビットパソコン用のコンピュータRPG。シリーズ化され、第3作まで発売されている。
[xii]内藤時浩が中心となって開発しT&E SOFTが1984年に発売したコンピュータゲーム『ハイドライド』から始まった一連のシリーズ作品のこと。
[xiii]1984年3月31日に日本のハドソンから発売されたPC-9801用グラフィックアドベンチャーゲーム。北米ではNES対応ソフトとして『princess tomato in the salad kingdom』のタイトルで発売された。
[xiv]1964年に誕生した、手続き型プログラミング言語の一つ。
[xv]電波新聞社が1982年から2003年まで刊行していたホビーユーザー向けパーソナルコンピュータ関連雑誌
[xvi]パーティーゲームの一種。通常、殺人などの事件が起きたシナリオが用意され、参加者は物語の登場人物となって犯人を探し出したり、犯人役の人は逃げ切る事を目的として会話をしながらゲームを進める。
[xvii]『クレギオン』は、1990年から2003年までホビー・データ社によって運営されていたプレイバイメールゲーム(PBM)・テーブルトークRPG・小説作品のシリーズ名、およびその各媒体で展開された共通舞台の名称。
[xviii]遊演体による1991年度発表の商業PBM。
[xix]株式会社エニックス(英: ENIX Corporation)は、かつて存在した日本のゲームメーカー、出版社。2003年(平成15年)4月1日に同業のスクウェアと合併し、スクウェア・エニックス(法人としては現在のスクウェア・エニックス・ホールディングス)となった。

中川大地氏

齋藤陽介氏

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