PBM ‐「記憶」に残る、伝説のゲームを「記録」にするプロジェクト
菅沼拓三(すがぬま・たくぞう)
1965年東京都中野区生まれ。学生時代ホビージャパン社の編集アルバイト、ライターを経て、創刊直後のドラゴンマガジン編集部に参加。以降、主に富士見書房で「蓬萊学園」「クレギオン」「フルメタル・パニック!」「A君の戦争」シリーズ他、ドラゴン・カップ、MAGIUS、ドラゴンエイジなど、多数の新作、新企画の立ち上げに携わる。小説著作に「株式会社吸血兵団」など
さて、第一回は「蓬萊学園の初恋!」企画成立まで駆け足で語ってしまったが、あの記述だけでは、「~初恋!」がどれだけ画期的な作品であったか、刊行当時の衝撃を、十全に理解してもらえたとは思っていない。つか、「小説編集者の視点からネットゲームを振り返って欲しい、って、こんなノリでいいんかい?」と送ったオチもついてないサンプルをそのまま載せるものではないよ中津君や。
そうだな、前後5年くらいのスパンで当時のエンターテインメントフィクション全体の状況を概説しておかねばならないのだ。30年というのは、長い。ここ10年くらいしか知らない人にとっては想像すらつかないくらい、当時と今は違う。
私がホビージャパン社でバイトを始めたのは1983年、大学生になったばかり。当時の「ホビージャパン」本誌はまだミリタリーとガンプラが二本柱で、読者は「ロボットのオモチャなんて恥ずかしいものを載せるな」「ナチとか日帝とかで喜ぶなんてけしからん」で喧嘩をしていた。これが一因になって翌1984年に分裂装動が起きて「モデルグラフィックス」が創刊、私もちょっとだけ巻きこまれる事になるんだが、これはネットゲームとも蓬萊学園とも全く関係がない長い話なのでまたの機会に。
「ぎゃざ」も「RPGマガジン」もまだなくてその前、「タクテクス」というボードシミュレーションゲーム専門誌が翻訳アルバイト募集をしていた。受験を終えた高校三年生で、プラモから始まったミリタリー趣味でアナログウォーゲームも嗜んでいた私は「大学生になったらこいつで稼ぐか」とSPIの「CITY FIGHT」というゲームのルールブックを翻訳して送ったのだが、まあ高校生よりは翻訳が上手い人がいるのは当然で、グラフィックやテキストのライティングの仕事を回されることになる。テキストは9801のワープロソフトがあったが、グラフィックは紙とペンのアナログ作業の時代。
ホビージャパン社が「トラベラー」の日本語版を出すのは翌年、1984年だから、まだTRPGはマイナーだった。「ドラゴンクエスト」が出たり、「コンプティーク」で「ロードス島戦記」の連載が始まったのが1986年だからね。なぜホビージャパン社が「D&D」ではなく「トラベラー」を選んだのかについては、重いような軽いような経緯と事情があるのだが、これもネットゲームや蓬莱学園とはなんの関係もない上に長くなるのでまたの機会に。
1983年当時、「ホビージャパン」本誌では、前述したようにミリタリー者とガンプラ者が戦争中。「機動戦士Ζガンダム」が1985年放映開始だからまだこの頃は、ガンダムだけだとネタが足りないから、「超時空要塞マクロス」や「装甲騎兵ボトムズ」のメカも扱っていて一定の人気があった。このあたりだとミリタリー要素が多めだったから喧嘩のタネになりにくい、という理由もあるかも。
そしてアニメと言えば、この頃は少年サンデー黄金期。「うる星やつら」が1981年に放映開始されて、1983年は劇場版の1本目が公開されている。「タッチ」のアニメは1985年と少し遅れたが、原作マンガは1981年に連載が始まっていて1983年当時は「うる星やつら」と並んで少年サンデーの二本柱だった。
さて、「マクロス」「うる星やつら」「タッチ」といった作品に共通する要素、この後の「蓬萊学園」を含むエンターテインメトに大きな影響を残す事になる要素があるのだがおわかりかな?
そう、「ヒロインの存在感」だ。「複数ヒロイン」の要素も加わる。「幼なじみ後輩高嶺の花いろいろ揃えましたよお好みでどうぞ」という類の、温泉ホテル朝食バイキング的あざとさが強くなってくる。「萌え文化の萌芽」と言ってもいい。萌と萌で丁度いい。それまでの少年向けエンターテインメントでは「添え物」「お色気要員」に過ぎなかったヒロインが、より大きな役割を与えられて主役を食うくらいの存在感を見せる。その存在感の大きさがいかほどものもか、商業的価値の再生産に繋がるくらいに大きくなっていた。
例えば、今でも一大産業になっている「美少女フィギュア」が商品として確立し始めたのもこの頃だ。完成品ではない。パーツ、と言い張っているがライトグレーのレジンの塊にしか見えないものを、表面処理して歪んでいるところを削って合わせて隙間を綺麗に埋めて塗装もエアブラシで肌には自然なグラデをかけて、と大変な手間をかけないとまともなラムやミンメイにならないという欠陥商品だったが、これが飛ぶように売れた。ポストホビーで手が足りないと言われて手伝っていたら、お客さんに「パッケと中身が違うじゃないか! 詐欺だ!」と絡まれたのはいい思い出。ホビージャパン社が「All THAT FIGURE」という増刊号を初めて出したのが1986年。完成品の写真集みたいなものだがこれも売れに売れた。添え物だったヒロインにそこまでの商品価値が生まれたという事だ。
そう言えば、アニメ絵ロリエロ雑誌の嚆矢「レモンピープル」の創刊が1982年、18禁OVAシリーズ「くりぃむレモン」が始まったのが1984年か。何かが始まる時期だったと言っていいのか、何か狂い始めた時期だったと言うべきか。
という状況を趣味として大いに楽しみつつ、ホビージャパン社での商売としては渋いミリタリーものを中心としていた私だったが、前述のように1984年のトラベラー日本語版発売を経て、TRPG方面での人脈を得る事になる。そのひとりが、大学生時代から慶応HQで活躍していて、1988年に遊演体を設立する門倉直人氏で、このコネクションがなければ、「蓬萊学園」の小説は存在しなかったかも知れない。
ホビージャパン社は小さな会社だし、クリエイション系の職場はたいていそうだが、社員もバイトもライターも、まあいろいろな意味でまっとう社会人には見えないフリーな人ばかり、スーツをぴしっと着込んだ門倉氏に初めて会った時は「慶応ボーイはやっぱりこういう感じですか」と思った貧乏人代表明大生の私だったが、えーと、あれは何年だったかな? 1987年か、彼が、「タクテクス」記事として、「ラビッツ&ラッツ」というオリジナルTRPGを掲載しようとしていた時に、彼と交わした「クロスメディア」というテーマの大激論についてだけは記憶に強く残っている。
彼は、「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」という小説を深く愛していて、「ラビッツ&ラッツ」は「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」の面白さをゲームで再現する事がテーマだった。私は、アニメの「ガンバの冒険」を再放送を含めて繰り返し観た後で、読んだ「冒険者たち ガンバと15ひきの仲間」の児童書的な側面にある説教臭さを嫌っていたから「ラビッツ&ラッツ」も面白くなるとは思えなかった。
もちろん、お互いわかった上でのプロレスみたいなもので、「下らん」「詰まらん」と笑いながらディスり合っていたわけだが。小説とアニメでは表現方法が違う、一冊の小説と30分枠半年24話のアニメでは尺も違う、なにより手がけるクリエイターの個性も違う(小説は書き手一人の色で染められたソロの魅力、アニメは監督と作画と演出と声優とその他諸々、さまざまな個性がぶつかるオーケストレーションとしての魅力、という違いもある)、同じものになるわけがないし、できあがったものが両方とも面白いならばそれでいい、ただ、ディスる風をして違いを洗い出していく事は無駄ではない、「クロスメディア」というケースススタディから表現、エンターテインメントの方法論を考える、そういう意味では無意味ではない。そんな「大激論」だった。
「タクテクス」の扱う範囲が広がって私も、ボードウォーゲームから外れてTRPGや、あと当時流行ったゲームブック商売も手掛けるようになるのが1985年以降か。と言うか、ボードウォーゲームではホビージャパンも私も食えなくなっていったという方が正確か。楽しかったんだけどね末期のボードウォーゲームも。このあたり、特に1986年に日本語版を出した「クトゥルフの呼び声」を巡る、実は、未だに影響を残している大きな「変化」に私も関わっていたところとか、面白い話もあるのだけれど長くなる上にネットゲームや蓬萊学園とはなんの関係もないのでまたの機会に。
気がつくと大学4年生、卒論担当の教授と喧嘩して留年も決まったので、そろそろ変わった事がしたい、と考えていた私は、「タクテクス」編集部にあった「ドラゴンマガジン」創刊準備号を見つける。ほとんど白いページの束見本みたいなものだったが、載っていたのは「風の大陸」が第1話と、第一回ファンタジア長編小説大賞の告知。これだな、と思った。
繰り返しになるが当時はラノベなんて言葉はなかった。ティーンズ向けの文庫レーベルは少女向けのコバルト文庫と少年向けのソノラマ文庫が二大双璧、と言うかそれ位しかなかった。「クラッシャージョウ」「トレジャー・ハンター」「キマイラ」シリーズあたりがインドア系高校生男子の基礎教養だったところに「妖精作戦」が1984年か。ティーンズ向け小説の需要はまだまだあるはずだからレーベルはもっと増えていいはずだ。書き手が足りない? 「妖精作戦」が行けるなら俺だって、と思った。そう思ったのは私だけではない。第一回の応募者の半分くらいは同じような事を考えていたはずだ。
私には無数の同志達にはないアドバンテージがあった。既に出版業界の内側にいたから、応募なんぞしなくとも仕事の交渉を……あれ? ええと、誰の伝手だったかな、確か、いまは無くなっちゃった浅草の玩具問屋のミムラの社長さんが、角川書店の取締役と話が出来て、上から案件で出来たばかりのドラゴンマガジン編集部とアポを取った? 当時の私は角川書店と富士見書房の関係など知らなかったはずだし、「今度できるドラゴンマガジンって雑誌と仕事の話がしたい」という若造の話を真面目に聞いてちゃんとしかるべき所に話を通してくれたあの社長さんには感謝しかないはずなんだからちゃんと覚えておけよ私。
私はファンタジア長編小説大賞で、「ぶっちゃけどんな企画が欲しいんですか?」という傾向と対策的なことを聞きたかったのだが、創刊号を出したばかりの業務だけで手一杯の編集部に飛び入りのフリーライターに構っている余裕はなく、「アニメ誌出身のスタッフがほとんどでファンタジーとTRPGがわかる人間が足りなくて困っているから、そういう経験があるなら丁度いい、手伝ってくれ」と言われて、始めた仕事をまさか20年以上続ける事になるとはね、思わなかったよなー。
そう、これも2023年現在のイメージで考えてはいけないのだが、当時の「ドラゴンマガジン」は「スレイヤーズ」以前の「ドラゴンマガジン」だという事をお忘れなく。少し遅れて秋にスタートした「ファンタジア文庫」のラインナップも含めて、ファンタジー色は「ソード・ワールドRPGリプレイ」や「魔術師オーフェン」が加わる最盛期より弱めだった。第一回でも述べたように、書き手や、編集スタッフにもアニメ関連出身が多かったから、SF、メカものも多かった。「ドラゴンマガジン」がテーマのひとつにしていた「小説をビジュアル的にして手に取りやすくする」ためのテクニックが、SF、メカものの方が経験値的蓄積がある、やりやすい、という事情もある。ファンタジーをどう絵にしてどう見せれば面白そうになるか、「売れるビジュアル」になるか、というテクニックが、まだ一般的なものではなかったのだ。
送り手のテクニックの問題もあるけれど、受け手の変化もあるかもなー。今はそれこそ、なろう小説の転移転生モノをはじめとしてファンタジーが当たり前、表紙にさ、ぬののふくとかプレートアーマーとか田舎の村なら丸太小屋、都なら石造建築、ドラゴンが空飛んで首から上が豚や犬になった獣人出しておけば「お、異世界ものじゃん面白そう」あるいは「またかよもうごちそうさまだよ」と思ってもらえる「記号」として成立するが、当時同じ事をやっても「ただ地味な絵面」になるだけだったしね。
ファンタジーとTRPG、と言われて、その場は「ああそんなことでいいんスか任せてくださいよもうばっちりだよ」とか調子のいい事を言った私にしてもそれは同じようなもので、ホビージャパン社で触れたことのあるTRPGは「TWILIGHT:2000」といったミリタリー、SFものが中心で、日本語版の企画もポシャったようなものばかり。ファンタジーと言えば「ドラゴンクエスト」、ああ、APPLEⅡで「Wizardry」はちらっとプレイしたことがあったかな? その程度。急いでホビージャパン社に戻って、参考資料として置いてあったハヤカワ文庫のエルリック・サーガの1巻目「メルニポネの皇子」で一夜漬けをした記憶がある。
もちろん、そんな自腹も切らない一夜漬けが通用するばずがなく、富士見書房でOJTをすることになるわけだが、これが実に勉強になった。なんと言っても、「風の大陸」はいのまたむつみ氏、「ソード・ワールドRPG」には天野喜孝氏がついているのだ。ベテランはファンタジーでもなんでもこなしてしまう。お客さんの心を初見でつかむと同時に作品の魅力をアピールできる「売れるビジュアル」とはどういうものか、を、このお二人にはたっぷりと学ばせていただいた。
加えて、第一回ファンタジア長編小説大賞の下読みの段階で読んで、なるほど、今風ヒロイン主役のファンタジーもありか、と思わせてくれた「スレイヤーズ」、これの刊行に立ち上げから居合わせることが出来たのも得がたい経験だった。神坂一氏の小説と、彼による簡単なアイデアスケッチから始まって、あらいずみ氏が「売れるビジュアル」にしていく課程を見ることができたのだ。例えば、あのリナのアーマー一つとってみても、どれだけの試行錯誤、どれだの工夫があそこに込められているか、あの場にいなかった人にはわかるまい。
OJTしつつ、1989年「ソード・ワールドRPG」のルールブック刊行、「スレイヤーズ」もまず書き下ろし短編が「ドラゴンマガジン」に掲載された後、受賞作も文庫として1990年に刊行され、どちらも富士見書房のメインタイトルとなる。そして1991年、「蓬萊学園の初恋!」が刊行される。
……あーやっと第一回に追いついた。「ネットゲームとも蓬萊学園に関係ない話ばかりじゃねーか」とお思いの方もいらっしゃるかもしれないが、関係ない話はひとつもない。本当に関係ない話はまたの機会にした。
・ヒロインの存在感
・クロスメディア
・売れるビジュアル
この三つのポイントを忘れないで欲しい。語り始めると終わらない「蓬萊学園の初恋!」の素晴らしさについて、この三つ切り口に限定して、次回第三回で分析していこう。お楽しみに。
菅沼拓三